【謄打/打字作品整理】『奇跡のりんご』(為尊重原作者之著作權,僅附部分內容。)
 
說明:本部落格使用者於大學一年級,曾擔任日語系教授之助理。當時『奇跡のりんご』為本人的打字作品之一。
為尊重書籍原作者之著作權、出版社之出版權,僅附部分內容。
 
『奇跡のりんご』此書之實體書籍共200頁;繕打至word,共112頁,約109618個日文原文字。
 
書籍原名:『奇跡のリンゴ』
臺灣中文譯名:《這一生,至少當一次傻瓜》
作者:石川拓治。譯者:王蘊潔
出版社:幻冬舎、圓神。
 
 
P.9
プロローグ
長崎の出島から江戸へ旅したシーボルトの旅行記に、日本の農村風景の美しさについて記した文章がある。
 「山の斜面の下の方では日本の農民は驚くほどの勤勉さを発揮四手、岩の多い土地を豊かな糓物や野菜の畑に作りかえていた。深い溝で分けられている細い畝には、オオムギ・コムギ・ナタネやキャベツの類/カラシナ・ハトマメ・ダイコン・タマネギ等が一フィートほど離れて一列に栽培されていた。雑草一本もなく、石ひとつ見当たらない。(中略)いまわれわれは幅広い街道に立ってすばらしい景色をあかず眺めた。両側に緑の苗床や菜園がありマツ林を通りぬけ、村々の間を通るよく手入れされた道は、わが故郷の公園にある散歩道に似ていた。この道は、曲がり角に来ると新しい景色が旅行者を驚かすように、考えて作ったかのように思われる」(『江戸参府紀行』ジーボルト著斎藤信訳)
 シーボルトの記述を読んでいると、農家でも江戸時代の人間でもないのに、なぜか誇らしい気持ちになる。
 それが何百年も昔から続いてきた日本の姿だ。
 
 
 
 
P.60
 
ナスなんか木みたいに大きくなったって。そういう経験があったから、農薬がなければ農業はできないという、既成概念に縛られていなかったんだな。日本に帰ってからもいろんなことを試していた。稲の苗は何本植えたら収穫がいちばん多くなるとかな。研究熱心な人だったのよ。だから私がやろうとしたことを理解してくれたんだと思うのな。親父が根っからのリンゴ農家だったら、減農薬というだけでも説得するのが大変だったはずだ。それでもさすがに無農薬でリンゴができるとは思ってなかったと、後で笑っていたけどよ。二年か三年もやれば、きっと諦めるだろうとな」
 
三〇年近くも昔、木村がまだ二〇代だった頃の話だ。
正確な年は木村自身も記憶していない。前後関係から考えると、彼が減農薬栽培から完全な無農薬栽培に移行し始めたのは一九七八年頃のことだろう。
その年、木村は四ヵ所あったリンゴ畑のうちの一ヵ所、結婚したときに実家の父親が譲ってくれた岩木山山麓の八八アールの畑を農薬散布のゼロ回区にした。木村が子供の頃、実家の父親が切り開いた畑である。木村も兄と一緒に山麓の斜め面を掘って、二人でリンゴの苗木を植える手伝いをした記憶があった。
 
 
 
 
P.159
 
妙な言い方だけれど、テントウムシに負けていない数少ない人間なのだ。
 
「でも、そうなるまでには長い歳月がかかっているわけだ。病気の対策も、同じことだったな。酢が有望だと思って、ずっと使ってはいたけど効果が現れなかった。それはやっぱり、見るべき場所を見ていなかったからなのな。農薬だって散布する濃度やタイミングは大切だけどもさ、酢の場所は比較にならないほどそれが重要なの。酢は農薬と違って、カビや細菌を根絶やしにするわけではないからな。農業関係の法律では酢を特定農薬と呼んでいるけど、やっぱり農薬とはぜんぜん違うものだよ。酢を飲んで自殺しようとする人はいないものな。人間には健康食品になるくらいで、酢は殺菌力を持っているけれど、それはごく弱いものだ。その弱い殺菌力で、リンゴの木が本来持っている病気に抵抗する力を補ってやるわけだ。そのためには細菌やカビの生態をよく知って、先手を打たなきゃいけない。ただ酢を撒いても駄目なのな。そういうことがわからなかった。私は病気だけを見て、その病気だけをなんとかしようとしていたんだな」
 
 
 
 
P.200
 
草むらに座り、パソコンを広げると、リンゴの葉が気持ちのいい陰を作ってくれた。
生え放題の雑草の海を、バッタが跳ね、蜂が跳び、どこかでカエルが鳴いていた。畑と言うよりは、野山のが眺めである。
シーボルトがこの畑を見たら、なんと言うだろうと思った。
 



 

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